退職のご挨拶(2023年5月20日付)

お餞別に花束と、同僚からお品を頂きました

退職のご挨拶

私、松島英洋は、5月20日をもって現職を退職します。最後の出勤日は5月19日でした。

現職の規定で仕事に関する具体的なことは一切書けないため、ここではどんな経緯で私が会社にお世話になり、そしてどんな経緯で退職を決めることになったかということを少しだけお話しします。会社の仕事に関する具体的な話はないので、それを期待されている方は少し拍子抜けするかもしれません。それでも、もしよろしければお付き合いください。

就職の経緯

私がこの会社に勤めることになったのは、地元の専門学校(当時は「飯田コンピューター専門学校」と言いました。現在の飯田コアカレッジです)に在籍している時の話です。先生から「ある会社が、3D CADの講習会をやるから、そこに学生を2人混ぜてくれる。行ってみないか?」というお誘いをいただいたのがきっかけでした。

当時の私は専門的な知識はありません。CADについては学校のカリキュラムにあったので触っていましたが、3D CADのと言うものの存在すら殆ど知りませんでした。そして、まだ1年生だったため、就職活動を意識して会社を調べるなどはまだしていませんでした。

会社は、B2Bを中心とした会社です。そのため、単なる学生ではあった当時の私は名前すら知りません。どんな会社なのか全く知らない中で、単に「楽しそう」という理由でエントリーをした、と言うお話でした。

当時はそんな言葉はあまりありませんでしたが、今で言う所の「インターン」という奴だったのかも知れません。それでガッツリ5日間。何週かに渡って講習会を開いていただきました。当時はただ楽しくて、夢中で参加させていただきました。

そこで現れた会社の「偉い人」(当時はその程度しか認識できていませんでしたが、その後、現在に至るまでずっとお世話になる、尊敬できる技術者経営の方です)に、学校に求人票を出すから、卒業したら来てほしいと言っていただいたのです。先生からは「良い会社に内々定を頂いたようなものだから、そこにしなさい。他の就職活動はしないように」と言われるほどで、しかし、私にはそれほど実感がないまま、そして、殆ど就職活動というものをしないままに、そのインターンでさせていただいた会社の子会社に入れていただいたのです。

そうして、就職し、お世話になりました。

就職と成長

その後の話は、私が現在の会社に勤め、そして18年間仕事をしてきたということから始まります。私の現職は、南信州の地域では企業規模も大きく、歴史も深い会社で中堅製造業の子会社です。この子会社へは、設立と同時に別の子会社から転籍して入社したので、私はこの子会社の創立時からの社員、この会社と共にありました。 親会社は、地域に根ざすことを指向している会社です。従業員をきちんと雇用して継続的に地域に産業を作るという信念を持っている企業です。

そこで私は3D CAD、そして「CAE」数値計算力学という技術に出会い、使う機会を頂きました。それは私の仕事の中核となる技術となりました。

入った当時は完全にドシロウトで、皆様にご迷惑をたくさんたくさんかけたと思います。 それでも、そこで様々なことを生み出し、経験させていただき、おしえていただき、さらにそこから派生して学んだ機械力学なども私の力になりました。最近では、所属する子会社の社内ITを担当させていただいたり、社内での講師を務めさせていただいた所から、子会社社員という身ながら、親会社のエンジニアの皆様に技術(テクニック)をおしえる講習会をやると言うこともやらせていただきました。

さらには、信州大学で修士号を取らせていただいたり、外部の講演会で賞をいただく、社内の技術講演会で子会社社員の身ながら発表をさせていただくなど、様々な経験をさせていただきました。

直接的に携わった仕事上の事は、ここには書く事はできませんが、そちらでもたくさんの経験や、ワクワクするような仕事を与えてくださいました。

尊敬できるプロフェッショナルのエンジニアも多くいて、そういった皆さんと一緒に仕事ができたのは本当に幸運でした。皆様には、本当に感謝しています。

退職の決意:自宅介護への転換

介護が必要である母親と、最近体調を崩すことが増えた父親。私の父はかつての大きな存在が、だんだんと小さく見え、体力的にも辛そうにしている事を目にするのが増えていきました。また、母の病状も年を取るにつれて、悪化していくのは仕方が無いことではありました。そうして、家の事や、介護について、私が担う部分がどんどんと大きくなっていきます。徐々に、フルタイムで通勤する仕事ではバランスをとるのが難しくなり始めていることを感じていました。

これらを見て、私は自分がどのように生活していくべきかを考えざるを得ませんでした。特に学生時代は、普通の学生とは言えなかった私。両親はそんな私を励まし、育ててくれました。なので、私は、親を大切にすることを決意しました。

そして、私が自分の役目を見つけた時、会社にも変化がありました。元々、ほぼ一人で始めた分野の仕事が、仲間に恵まれ、上司同僚に恵まれ、私のスキルや仕事を引き継いでいただける方も出てきたのです。

一方で、会社の状況は様々で、技術的には可能でも、諸事情でテレワークやリモートワーク、在宅勤務といった形態が難しいという現実もありました。

そこで私は決断しました。在宅勤務が基本となる仕事に転職することにしました。

感謝の気持ち

私が今ここにいるのも、18年間の経験と、多くの方々から得た助けと支援があったからです。私が一人前の社会人になれたのも、この会社が私を見つけてくれたからこそです。転職活動で思い知りましたが、恐らく私は、今の会社に拾っていただけなかったら、せいぜい単なるコンピュータオタクで、何もできない人間だったと思います。本当に感謝しています。

しかし、時間というものは待ってくれません。それが私がこの会社を離れ、在宅勤務ができる別の会社へと移る理由です。

皆様には大変お世話になりました。私が学んだことを十分に返すことができず、心苦しく感じています。それでも、皆様が元気で過ごしていただき、多くの活躍と幸せを掴んでいただくことを心から願っています。

私はこれからも、このブログやSNSで皆様との繋がりを大切にしていきたいと思っています。私が5月21日から就職する新たな勤務先は首都圏にありますが、私自身は引き続き南信州の高森町で働き、在宅勤務を行う予定です。SNSやこの地で見かけた際には、ぜひお気軽に声をかけていただければと思います。

お世話になった皆様、本当にありがとうございました。皆様のご多幸をお祈りいたします。

でもできたら、何かあったら誘ってくれるとうれしいです。

今後について

次の職場はもう決まっており、5月21日付で入社します。私の都合で退職することもあり、有休消化などはとらずに、最後まで務めさせていただきました。

皆様は、介護と言えば大変だ、と思っているかも知れません。確かに、正直きれい事だけでは済まない場面もたくさんあります。皆様にご心配をしていただいています。

ただ、私はテクノロジーを使うことで、仕事と介護はきちんと両立をする事ができる、と信じています。それは介護ロボットやIT機器もそうですし、在宅勤務を可能にする技術でもあります。

もちろんテクノロジーを使う事のできる環境であるかどうかと言う問題はあります。もちろん、それに対応する個人のスキルも身につけ、アップデートし続ける必要があります。

しかし、介護をしつつ、更に仕事でもきちんとパフォーマンスを発揮すること、そして介護以外のプライベートや地域の活動など、そして介護も、ワークライフバランスをとることができると信じています。

私は欲張りで諦めが悪いので・笑 これらの両立を目指して、チャレンジし、頑張っていこうと思っています。見守っていただければ幸いです。

写真について

花束と、長い間同じグループで仕事をさせていただいた同僚の皆様から、お餞別の品を頂きました。トップの写真はその画像です。花束なんて、人生で初めて頂きました。そして同僚からいただいたペン。私はペンを無くす人なので(汗) 持ち歩くのではなく、机にキッチリ入れて大事に使わせていただきます。

また、同じ会社ではありませんが、新人の時代からず~っとお世話になった親会社のエンジニアの方からも、お餞別を頂きました。恐縮です。ありがとうございます。

きちんと形で残せるものにしたかったので、在宅勤務で使用する部屋用に、きちんとした電波時計を購入する為に使わせていただきました。大事にします。ありがとうございました。

時計

稲葉クリーンセンター 利用メモ

稲葉クリーンセンター

稲葉クリーンセンターを利用してみた

クリーンセンターへの道のり

地元には、地元の焼却ゴミなどを処理していただける「稲葉クリーンセンター」という施設があります。昔は焼却場と言いましたよね。そこに私がゴミを捨てに行った経験について、メモをしておきます。

私の住んでいる高森町からはちょっと離れたところにあり、だいたい20分から30分ぐらい時間がかかります。一度天竜川を渡って竜東をずっと南に川沿いに下っていく感じになります。

途中で案内の看板が出ているので、その案内の看板に従って行くといいと思います。最近できた施設ですので、古いカーナビだとマップが乗っていなかったりします。また、Google マップのようなスマートフォンのマップだと、最短コースということで距離は出してくれるのですが、走りやすいとは言い難い道を通らされてしまうことがあるため、案内看板に従って行った方が良いと思います。

経路案内図はクリーンセンターのホームページから ダウンロード出来ます。

利用手順

クリーンセンターの利用手順は以下の通りです。

  1. 入り口のゲートでの重さの計測 : 順路に従って入っていくと、建物の手前にゲートがあります。その入り口のゲートのところで最初の重さの計測があります。計測をしていただくと、カードをくれます。ここに重さなどが記録されてるみたい。このカードは帰りの時に出すので、ちゃんと持ってきます。ゲートがどんな風になっているかは、施工した荏原環境プラントさんのホームページの写真が分かりやすいかもしれません。

  2. 案内に従ってゴミを出す : 重さの計測が終わったら、係員の方の案内に従って道を進みます。それぞれ適切な投入口のところまで案内をしてくれます。私の場合は家庭ごみだったので一番端っこ、物を乗せる台に出すことができる場所に案内してくれました。ゴミはあらかじめ大まかでもいいので袋に入れておく必要があります。ただし、ダンボールは基本的には資源ごみですから、ダンボールなどではなく、いわゆるゴミ用の袋を用意するとよいでしょう。ただ、中身を出してダンボールを持ち帰る場合はOKとのこと。私の場合はビニール袋に入れて行ったのですが、詰め込みすぎてしまったため、ビニールが破れて中身が出てしまい、係の方にご迷惑をおかけしてしまいましたが、係の方が親切に対応してくださり、助かりました。 他にも注意点があるので、そこは受け入れ案内を参照してください

  3. ゴミの重さに応じた料金の支払い : ゴミを出した後は、出口案内に従って行きます。出口ゲートに来たら、入り口で受け取ったカードを渡します。そうすると、車まるごと計測してくださって、その計測の差でゴミをどれだけ捨ててきたかということをみて係の方が料金を告げてくだします。そこでお金を払い、領収書をいただいて帰ってきます。

費用は10kgで180円と、通常の黄色い袋に入れて払っているゴミ袋よりも単価は圧倒的に安いですね。ただし、30分かけて行って出し、30分かけて帰ってくるということを考えると、通常のゴミ収集もそんなに高いということではないと思います。

稲葉クリーンセンターの利点

直接ゴミを出すと、通常のゴミ袋では入らないような大きなゴミも捨てることができますし、粗大ゴミなども自分で解体すれば持ち込めるでしょう。大きなゴミだけではなく、例えば焼却ゴミとしてで指定されている古い布団なども出すことができます。各自治体はホームページで案内をしていると思いますし、稲葉クリーンセンターのホームページにもきちっと案内が出ていますので、それを確認することができます。

まとめと今後の予定

なぜこんなことをしているかというと、今、家の中の片付けをしているからです。これから私は在宅で働く仕事になるので、ずっと物置と化していた部屋を片付けて、そこを専用の仕事部屋にしようと思っています。

しかし、大きなゴミが自由に出せるというのは大きな利点ですね。特に我が家のように農業を行っている場合、物を置くスペースは結構広くあります。もちろん、農業のトップシーズンの時にはスペースが必要なのでその時には確保しなければなりませんが、時季外れは開いたまま。腐ったりしない安定したゴミならば、そこにまとめておいて特定の日に出すというのも悪くないかもしれません。(ただし農業ゴミは産業廃棄物なので、持ち込み不可です)

この記事を通じて、稲葉クリーンセンターの利用法とそのメリット、そしてそれをどう活用するかについて具体的なイメージを持つことができたでしょうか?。 これからの在宅ワークの準備の一環として、私自身も引き続きクリーンセンターを活用させていただこうと思ってます。

家の中の片付けはまだ全然終わってませんが(汗) 心地よく、集中できる作業空間を確保することが今後の目標です。

写真について

稲葉クリーンセンターのホームページを引用させていただきました。 ホームページはこちらから。各種案内もあります。

介護ロボット「hug」

Hugと昇降座椅子

介護ロボット「ハグ」の導入

私の家では、母が2011年の東日本大震災の直後に脳卒中で倒れ、突然介護生活が始まりました。ふと気がつくともう介議歴が12年、13年ぐらいになっています。その間、いろいろありました。当初は母が家の中では歩行器を使って歩けていたのですが、新型コロナウイルスによる入院後、それもなかなか難しくなってしまいました。

それもあって、我が家では今「ハグ」という介護ロボットが活躍しています。何か自動でやってくれるだとか、鉄腕アトムのように家の中を歩いてくれるとかそういうわけではないのですが、この介護ロボットは非常によくできていて、我が家の生活はこれで成り立っていくと言っても過言ではありません。

と言うことで、このエントリーでは、介護ロボット「Hug」について書いてみます。

ハグの構造と利用方法

ハグとは、移乗サポートロボットです。簡単には、メーカのサイトをご覧頂くと良いですが、

https://www.fuji.co.jp/items/hug/hugl1

要介護者を機会にしがみつかせるようにして、人間が自然とたちがるような形で体重を預けさせながら、安全に身体を引き起こし、立ち上がらせるロボットです。

このハグという機械は非常によくできていて、構造としてはワンモーターで成立しています。モーターのところにボールがついたアクチュエーターが内蔵されていて、リジットなフレームが組み合わせられています。患者の脇の下をすくい上げるようなアームと、患者が掴まれる手が付いていると言ったような構造になっています。

立ち座りを支援するための使い方としては、患者の脇の下にアームを差し込んで、患者にはそのハグに寄りかかるように体重を預けてもらいます。そしてスイッチを入れるとアクチュエーターが伸びて、リンク機構を伸ばすことによって患者の体を引き起こしながら、重心をその介護ロボットに預けさせます。そのキャスターで転がして患者を動かしていくということができるわけです。

通常、立ち座りが不安定な人の介助は、大人が二人がかりで介助するのが一般的です。何故ならば、膝に力が入らなかったり、座る位置に失敗したりする時に怪我をしないように保護することや、一度床に座ってしまった要介護者を抱き起こすには、二人以上必要になるからです。

ですが、仮定では2人以上で介護する事なんて、普通はできません。しかし、このHugを使うと、一人で安全に立ち座りをさせル事ができるんです。

我が家でのHugの利用

我が家の介護対象者は母です。母は脳卒中をやっている上に、変形性関節症を持っています。 そんな母自身も、リハビリの成果で、私が見ている時には、私の声かけで自分で体を支えて立ち上がって、ベッドサイドに置かれた車椅子に移動するぐらいはできます。また、デイサービスに行った時は、介護施設の職員さんの見守りのもとで、車椅子からの立ち座りも十分にできているそうです。

もちろん、父が見守った状態で母が立ち上がるということも可能です。 しかし、万が一失敗して床に落ちてしまった場合、つまり転倒してしまったら、再度立ち上げることは困難です。骨折をしてしまったなんてことになったら、本当に完全に動けなくなってしまいます。それを防ぐために、通常はHugを使用して移乗するようにしています。

ですので、父ひとりの時間帯でも安全に移乗ができますし、私も通常は事故を防止する為にHugを使用しています。

Hugがあるおかげで、母となんとか自宅で暮らせています。

ハグと保険適用

このハグというロボットは、日本のメーカーが作っていますが、元々はヨーロッパで開発されているもののようです。コア部品の電動アクチュエータは輸入のようで、ヨーロッパの国で生産されているシールが貼られています。このHugはバッテリー駆動で電動で動くようになっていますが、これの素となった介護器具では、テコ車の様に、手動で体を抱き起こすような仕組みになっているものもあるようです。

実は、このハグが保険適用になったのは、母が2回目の新型コロナウイルス後、安全に移動する方法がないということで色々なものを検討した時でした。その時に、地元の介護事業者さんがハグを紹介してくださり、使えるようになったという経緯があります。 なんと、介護保険が使える様になってから半年しかたっていませんでした。ぎりぎりのタイミングで使える様になったわけです。本当にぎりぎりセーフでした。

介護ロボットの必要性と期待

Hugは、基本的に段差を登ることはできず、スロープも殆ど上る事はできません。ですから、使用するところが平らである必要があります。しかしそれは介護住宅改修で整えてしまえば良い事なので、こう言うロボットを前提に解像してしまえばいいと思います。 ここら辺は、全然違う分野ながら、製造業の工場などと同じ考え方なんだなと思ったりもしました。

この他にも、ロボット的なモノとしては、昇降座椅子というものも使っています。人間は座るときは低め、立ち上がる時は高めの方が身体に負担がかかりません。この昇降座椅子は、電動で自由に高さが変えられるようにできているので、母が乗り移りするときに便利ですし、これのおかげで母もこたつに入ることができています。

介護というのは誰にでも訪れます。そして、私のように配偶者もおらず、介護のために同居している一人で少人数で介護をしなければならないという状況は、今後増えていくでしょう。核家族化も進んでいますし、そんな時にこのような介護ロボットが支えてくれるのは非常に大きいと思います。

ただ、まだあまり知られていません。 今後もこのようなテクノロジーを使って介護問題が解決できるということが進んでいくといいなと思っています。

写真について

写真は、我が家にやってきたばかりのHugです。今ではだいぶ使い込んで少し様子が変わっていますが、現在も元気よく私たちを助けてくれています。

我が家での介護について

南信州の山と空

我が家における介護について

私は2011年から母の介護を始めました。このブログでは我が家の介護の方針について少し詳しく書いてみたいと思います。 8 介護に関する話題はプライバシーに関わることも多いので、ネット上に情報が少ないと感じることもあります。だからこそ、我が家の経験が誰かの役に立つことを願いながら、このエントリーを書いていきます。

母の介護体験:始まり

私が母の介護を始めたのは2011年のことです。ある朝、母の様子がおかしいと父から連絡があり、急ぎ帰宅すると、母は救急車で地元の脳外科病院に運ばれた後。台所には嘔吐をしたあとがあり、まさに典型的な脳卒中の症状だった、とあとで思います。これが始まりでした。

幸いにして、母は発見が早く、比較的早く病院にはたどり着けたのですが、出血範囲が広く、医師からは「命があぶない」「意識が戻らないかも。戻っても寝たきりになる可能性がある」との厳しい見通しが示されました。しかし、脳外科の先生のケアと、皆様のご協力で意識を回復。その後超急性期の脳外科病院から、リハビリを行う為の病院へと転院しました。

当時は、そのリハビリ病院で世話になった医師が母と非常に相性がよく、また家族全員でリハビリを頑張ろうという姿勢で挑めたのも大きいと思います。

リハビリの成果

リハビリは、家族でだれかが毎日母の病室に行き、リハビリの進行状況を確認し、続けるように励ました結果、初回の脳卒中から立ち上がることができるまでに回復しました。歩行機を使えば歩けるようになり、一部の料理をすることも可能になりました。ただし、高次脳機能障害というのが残り、運転はできなくなりました。それで退院をしました。

この時点では、要介護度は当初は2、そのあと母の経過が良いため、要介護度を1に下げることもできています。

二度目の脳卒中とその後の生活

それから約1年後に、母は二度目の脳卒中を経験しました。この時は、出血量は一回目ほど多くなかったものの、再び施術。一回目の脳卒中で出血したのと反対側の脳で出血で、更に障害が重なることになりました。

それでも、また、ひたすらリハビリを頑張ってくれて、その成果で、家の中ではまだ歩ける状態まで回復。当初、歩けなくなるかもしれないと言われたにも関わらず、リハビリを続けた結果、動きが改善しました。

ただ、視野欠損と高次脳機能障害が悪化したため、料理などは難しくなりました。 この時点で、要介護度は2と認定されました。

介護の方針:社交的な生活を維持

家族としての介護の方針は、母が家に閉じこもらないようにすることでした。母は基本的に社交的な人なので、デイサービスに行くことを楽しんでいました。私たちは介護保険で得られるほとんどの部分をデイサービスに使用することにし、ケアマネージャーさんにはその設計を依頼しました。

介護用品のレンタルは、歩行器と車椅子という、継続してメンテナンスが必要な部分だけにとどめ、立ち手すりなどはレンタルをするのではなく購入する事で費用を圧縮し、その分、デイサービスにできるだけ行くと言う形でお願いしました。この方針は今も変わっておらず、つづけています。

睡眠時無呼吸症候群の発見

その後、特に大きな変化があったのは、母が睡眠時無呼吸症候群(SAS)を患っていることがわかったときでした。デイサービスのスタッフからのアドバイスで、母がSASかもしれないと教えて下さり、診断ができました。

特に睡眠中の血中酸素濃度が非常に低くなること、睡眠の質が悪いが見えてきました。それを、CPAPと言う簡易型の人工呼吸器のようなものを導入しました。すると、なんと、今まで色々な薬を使ってもなかなか下がらなかった血圧がするっと下がり、さらに他の病気の指標も一気に改善したのです。

CPAPを使うようになってから、母は脳出血を再発していません。この時、睡眠時無呼吸症候群を見つけてくださった介護スタッフの方には、いくら感謝してもしきれません。

記憶を探ると、私が幼いころ、まだ一緒に寝ているころから、母はSASの症状が出ていたような気がするので、母にとってSASによって睡眠の質が悪いことが当たり前になりすぎており、気付かなかったのかも知れません。

その後は、何度か入院することはあるにしても、しばらく安定していました。

次の大きな変化は新型コロナウイルス感染症下

次に、大きく母の様子が変わったのは、新型コロナウイルス感染症下の事です。病院に行ったところ、気持ち悪い、からだがふらつくと言うことで、入院。そのあと症状は落ち着いたものの、改めてリハビリをすることに。しかし、この時は新型コロナウイルス感染症下で家族の面談は一切できず、また、以前お世話になった母と相性の良いリハビリ担当の先生はもう退職されていなかったことなどもあって、母は基本、車椅子で生活するようになりました。

リハビリは、本人のモチベーション次第のような所があります。また、新型コロナウイルス感染症下では、なかなかリハビリも難しい所があったと思います。さらに、このとき、母が倒れてから10年の時が流れており、母もそれだけ歳をとっていました。

どうするか決めたこと:家で介護する。ただし、使えるものはなんでも使う

第一に、母に施設に入ってもらうという選択肢が出てくる状況です。この時、要介護度は4です。5段階で4番目に重い介護度です。 家族で相談し、一つの方針を立てました。まずは、情報を集めようと。

そこではみつけたのが介護ロボットです。これで、なんとか家のなかで暮らしていけそうな見通したが立ち、またケアマネージャーさまはじめ、関係者の皆様のご調整の結果、帰宅することにしたのです。

介護へのテクノロジーの活用

特に、我が家では介護ロボットを導入することで、大きな変化を見たことを述べたいと思います。このロボット、我々が購入したものは「ハグ」(Hug)という名前の製品で、介護保険を利用して導入しました。詳しくは別のエントリーで紹介していますが、簡単に言うと、安全に移乗ができる支援するロボットです。このロボットは私がいない時でも、父ひとりでも安全に乗り移りをさせる事ができるので、彼女の自立性を保つために大いに役立ちました。

また、IoTの力をつかって、見守りカメラを導入したりして、家族がつきっきりでなくても、ある程度母の安全を確保しました。これらのテクノロジーは、家族の負担を軽減し、一方で母が必要とするケアを提供するのに役立ちました。

さらに、当初の方針の通り、母は母が望む限り、できる限りデイサービスなどに行ってもらっています。これは父や私の労力を下げることにもなっています。

介護の現実と展望

しかし、正直なところ、介護は時間との戦いでもあります。子育てとは違い、介護は時間が経つほど容易になるものではないのが現実です。それでも、私たちは引き続き最善のケアを提供するための方法を模索し続けるつもりです。

介護は情報戦でもあります。新しい装置や治療法、サービスなど、どれが最も効果的であるかを把握するためには、情報が必要です。私たちは、これまでの経験から、情報を得ることが、効果的なケアを提供するための鍵であることを学びました。

まとめ

我が家での介護は、以下の様な方針でやっています。

  • 社交的な母が自分らしくいられるよう、できる限りデイサービス・デイケアを活用して外に出て行く事を重視する
  • 介護ロボットなど新しい道具を使うことで、できる限り快適に暮らせるようにする
  • 医療は切らさないように、体調管理を行う
  • リハビリは積極的に取り組めるように、家族で後押しする
  • ケアマネージャ様はじめ、ご関係の皆様とできる限り連絡をとりあう

実は私は、父がわりと年齢をいってから子どもなので、私の年齢よりも父は高齢です。もう無理はできません。 私も、色々とできる状況ではありませんが、できる限り、今の穏やかな暮らしがつづけていけるように、していきたいと思っています。

私の経験が、他の誰かの参考になれば幸いです。それが、このブログを始めた目的の一つでもあります。

写真について

写真は、どこでとったか忘れましたが(汗) 私がドローンで撮影した写真です。高森町内から撮影したのは間違い無いはず。

「趣味は読書」と大規模言語モデルAI

本棚の写真(アイキャッチ)

趣味は読書です。

私の趣味は読書です。

が、多くの人が何が趣味か聞かれたときに「読書」と答えることから、その反応は時として微妙になりがちかもしれませんね。
ですが、何があっても私の第一の趣味は読書であり、そのことに変わりはありません。ということで、とりあえず、どれぐらい趣味が読書なのか書いてみます。

本の虫

本好きの表現に「本の虫」というものがありますが、私の本の虫具合を具体的に説明すると、よくありがちな事で言えば、学校で教科書が配付されると、とりあえず国語の教科書を全部読んでしまうような子どもでした。また、私の部屋はほとんど本で埋まっています。もともと寝室であった場所は、本の山に囲まれ、本を置いてない一角で寝ているという状態になっています。実は、かつて住んでいた古い家では、本棚に本を詰め込みすぎて、真面目に床を壊したことがあります(汗)

時間さえあれば、私は本を読んでいます。

かつては物理的な本を常に持ち歩いていました。コンビニでバイトして最初の賃金で買ったのは、本革製のブックカバーだった、という程度には持ち歩いていました。

しかし、現在では基本的に電子書籍を利用しています。スマートフォンの中にはデータとして千冊以上の本が入っており、さらに電子書籍ストアには、購入済みの本がアづけてあって、いつでも本をダウンロードして読むことができます。なので、いつでもどこでも本を読めるようにしています。

私がなぜそんなに本を読むのか、その理由はおそらく両親がよく本を読むからだと思います。特に父は年齢を重ねても年間50冊は普通に読んでいます。それを見て育った私も、自然と本を読む習慣が身についたのでは、と思っています。

それから、マンガも読むのですが、基本的には活字が中心です。 どうして活字を中心に読むようになったのかというと、コスパを求めた結果だと思います。漫画は単行本一冊、一時間もあれば読み終えてしまいます。ですが、小説の文庫本は同じ程度の価格ながらも、読むのに半日はかかることが多いです。つまり、長い時間をかけて楽しむことができるのです。また、図書館で借りられる世界文学全集などは、競争率が低いのに、読み応えのある話がたくさんあって、好んで読んでいました。

ブックスペースの変化

最近……といってももう10年以上前からかもしれませんが、私の読書趣味は物理的な本から少しずつ距離を置くようになりました。 今では私にとってのルールとして

  • 電子書籍が存在するものは必ず電子書籍で買う

と、定めています。一方で、電子書籍が存在しないものや、画集などのように物理的な存在が重要なものは紙の書籍で買います。これらのルールのおかげで、私の部屋にはこれ以上本が増えることはない……はずです。

そして最近はさらに心を入れ替え、本棚の整理を行いました。

それは新しい生活環境を作り出すために必要で、仕事ができる場所を確保するために本を処分することにしたのです。 その際の基準は

  • 電子書籍で購入できるもの
  • 画集など、印刷書籍である事が重要なもの
  • 本業に関連する技術書

を残し、それ以外は基本売却すると言う方針にしました。

古本の運命

これらの本を処分する先は、インターネットの古本屋にしました。地元の古本屋や一般の店舗には持って行かなかった理由は、ネットの古本屋さんが持つ特異な事情を知ったからです。一昔前の古本屋から、ブックオフのような新古書店が台頭した背景には、年式だけで判断して本を買うという考え方がありました。それに対して、ネット書店は一歩進化しています。

私は本を乱読します。なかには一般の店舗ではなかなか取り扱われないような変わった本もあります。それらを一般の店舗に売ると、ほとんどが廃棄になってしまいます。しかし、ネットの古本屋であれば、地方の安い倉庫を背景に、大量にため込む事ができるため、廃棄される率は比較的低いようなのです。そこで、次の読者のために、これらの本が再利用されることを期待して、買い取り価格は安いことを承知の上で、出すことにしました。

知識の結晶と読書と大規模言語モデルAI

放送大学に在籍している私にとって、学長の言葉が印象に残っています。それは「結晶性知能」についてのものです。

これは、たくさんの情報をインプットし、それを引き出して発信していく能力を指します。瞬発力的な知能、例えば計算や記憶力などは年齢と共に衰えていくと言われていますが、一方で、この結晶性知能は年齢を重ねていけば行くほど磨かれる、のだそうです。

この結晶性知能、何かに似ていませんか? そう、最近注目を集めている「大規模言語モデル」というやつです。GPTに代表されるものですね。最近はキャズムをこえて注目されるようになってきました。この大規模言語モデルは、ひたすらたくさんの情報を学習させた物です。

この二つ、考え方が似ていませんか? 自分がこうやってもしゃもしゃと本を食む虫のごとく、本を読んだり、何かを学んだりするのは、実はAIと同じ事をしているのではないか、と感じたりしています。

もちろん私のような天然知能と、人工知能は物も役割も異なりますし、特に根拠があって言っていることではありません。

ですが、お世辞にも瞬発力的な知能は高くない自分としては、人工知能もやっているアプローチなんだろうなと考えて、本にお金と時間を使うことを正当化し(汗)

今後も「趣味は読書」をやっていきたいと思っています。

画像について

アイキャッチの画像はElasticComputeFarmによるPixabay からの画像をお借りしました。

八戸中心街バスターミナル攻略法(?)

1番 三日町(八戸駅からのバス停)

八戸中心街バスターミナル攻略法

青森県八戸市には、何度かお仕事でご縁のをいただいて、訪問させていただいています。 その、八戸中心街バスターミナルの攻略法(?)について、ちょっとメモをしてみます。

出張などで来た人が拠点とする場所としては、新幹線駅である八戸駅がある郊外周辺と、少し離れたところにある昔からの中心街(八戸駅周辺)の二カ所になると思いますが、私はいつも中心街にの方に宿を取ります。 中心街周辺は安価で便利なビジネスホテルも多いですし、お料理屋さんなども多いからです。

そして、レンタカーなどを利用しない場合はバスを中心に使う事になります。 この中心街のバス停が少し特殊なので、その攻略法をメモしておきたいと思います。

八戸中心街バスターミナルの特徴

  • 「戸中心街バスターミナル」という名前のついたバス停は5つあります。
  • それぞれのバス停には中心街の地区の名前がついています(例えば六日町、朔日町(ついたちまち)など)。
  • しかし、これらの名前を地名として読むよりも、「バスターミナル何番」という名前で覚えておいた方が良いでしょう。
  • 五つのバスターミナルのバス停のなかは、基本的にバスはそのうち一つにしか停まらない

これは、実際に「バスターミナル」という建物があるわけではなく、五つのバス停を一つのバスターミナルの乗り場のように見せてセットで扱っているからです。

5番 六日町(八戸駅行き)

バスターミナルの運行構造

バスターミナルがある道路は一方通行になっている所があります。駅方面から港の方へと抜けていく道と、その裏通りはその反対方向へと一方通行になっています。一直線に通っていくという運行構造になっています。 おしsて同じ一方通行の道でも、例えば四番に停まるバスは五番の前を通るが停車はしないという風になっています。

したがって、外から来た人は地区の名前(三日町と六日町、朔日町と六日町など)の位置関係を無視し、どの路線はどのバスターミナルから出るのか、また乗り換える際はどのバス停に乗ればいいのかを意識して、都会のバスターミナルの乗り場を目指すようにすると良いと思います。

八戸訪問の振り返り

これまでの仕事で八戸には約5回程度訪れたています。ここで、このバスターミナルの運行構造に気づいたのはだいたい3回目ぐらいでした。最初は新幹線が止まる八戸駅周辺で宿を取りましたが、その後は中心街の方のホテルに泊まっています。

一方で、南信州は、一般乗り合いバスはあまり発達しているとは言えません。(高速バスは別)なので、最初は戸惑ったのですが、八戸駅と本八戸駅の間は、周辺地域を走るバスが集中して通るようになっていて、10分間隔で運行されているなど、非常に便利に使えるように交通機関が発達して、バスがしっかり運行されていました。また、先日伺った際は、Suicaなどの交通系電子マネーが使えるようになっていて、更に便利になっていて驚きました。

八戸駅前のバス乗り場

基本的に私は、出張やセミナー、展示会などをで他の土地を訪ねてもホテルでコンビニメシをツマミながらパソコンを叩いているタイプなのですが(汗) 八戸は何回も、それからだいたい一週間単位とかでいるので、地場のスーパーなどにも寄らせていただいたりしています。港町だけ合って、スーパーで売っているお刺身も「気合い」が違う気がします。おいしいお店などにも連れて行っていただいたりしました。

八戸市は港町。南信州とは全然違った風景を見せてくれます。それが印象的で、仕事ではなく純粋に遊びに行きたいと思っています。八戸港があるので、茨城の大洗からフェリーで向かい、八戸を堪能した後、そこから更に、熱中小学校の関係でご縁のある、北海道の白老町に言って帰ってくる……そんな妄想をしています。まぁ、いつできるかはわかりませんが。

八戸の皆様、お世話になりました。ありがとうございました。

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